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軍事

対日総力対応の文大統領、『上部の明が結んだ講和を破った』李舜臣を持ち上げて「12隻で国を守った」

タレコミ by Anonymous Coward
あるAnonymous Coward 曰く、
李舜臣が「12隻で国を守った」とされる件は、文禄の役に引き続く慶長の役に於ける鳴梁海戦を指す。
慶長の役再開時、政敵の元均らによる換言で李氏朝鮮水軍指令=水軍統制使の李舜臣は左遷させられ、死刑論もあったが減刑され一水兵まで格下げさせられていた。
次いで水軍統制使に就いた元均が、慶長の役劈頭に上司の都体察使李元翼の命で無謀な強制出撃させられ、漆川梁海戦に及んで壊滅敗死(生存説有)した。
また水軍統制使に返り咲いた李舜臣が、残存主力大船12隻程度と動員された避難民の船約100隻を率いて、海流の複雑な鳴梁海峡(朝鮮半島南西端域)で日本軍船団を襲撃、戦力比にしては賞賛に能う損害を日本側に与えたものの、衆寡敵せず即日撤退に及んだ事を指し、これを称して「12隻で国を守った」と韓国人は豪語・絶賛している。
海戦後直ちに脱兎の如き勢いで李舜臣率いる船団は即日唐笥島に脱出し、翌日には於外島まで退避して、鳴梁海峡の制海権は日本側に帰しており、以後も日本側の陸海一体となった進出に追い立てられ北退を続けた。
漆川梁海戦時に李舜臣が使った李氏朝鮮水軍根拠地は海戦直後に日本側が破却しており、日本側が慶長の役開戦当初の予定通り押さえの城砦群(その一つが後述の順天城)を設けて撤兵した後、明・朝鮮陸軍と共に現地域に再進出し兵力再建にあたる。
豊臣秀吉死去直後(当然前線の将兵が知る由は無い)の大敗に終わった三路の戦い(第二次蔚山城の戦い・泗川の戦い・順天の戦いを併せた明・朝鮮軍の総力三方面同時攻撃)中の順天の戦い(この時最初に明・朝鮮軍は和議と称して会談を持ちかけ、小西行長生け捕りを図っている)に参戦する。
直後の秀吉死去による日本軍撤兵命令により、順天城の小西行長らは明軍の劉綎と和議を締結し撤退を開始しようとしたところで、明・朝鮮水軍は和議を反故にし順天沖に現れ海上を封鎖し撤退を阻んだ。
小西らは明水軍の陳璘と再交渉をして撤退の約束を取り付けるが、日本軍の撃滅を望む朝鮮水軍の李舜臣がこれに猛抗議すると、陳璘も和議を反故にして順天の日本軍が帰国することを阻んだ。
斯くして順天へ救援に向かった日本側水軍と激突した露梁海戦で、和議を反故にした明軍の副将鄧子龍や朝鮮軍の主将李舜臣以下複数の将官達は因果応報で戦死を遂げたのでした。
めでたし、めでたし。

なお、文禄・慶長の役に於ける日本軍の朝鮮半島に於ける策源地は釜山であり、そこから各地へ陸路で兵站線が延びていたが、海路で兵站線が延びていなかったのは、まあ李舜臣を含む明・朝鮮水軍の奮戦の賜物と賞して良い。
この日本側の金城湯池釜山に後一歩と唯一迫ったのが、文禄の役で李舜臣が総動員した朝鮮水軍を率いて釜山に殴り込みを図った釜山浦海戦で、これで水上戦力が枯渇したのか懲りたのか、文禄の役中明・朝鮮水軍の蠢動は止まり、その後も日本軍の撤兵終了まで釜山は安泰であり続けた。

なお態々長々と李舜臣の末期について書き綴ったのは、朝鮮韓国人の「約束」に対するメンタリティーが、李舜臣賞賛に良く現れていると思うからです。
李舜臣が「12隻で国を守った」件の鳴梁海峡(珍島と朝鮮半島本土間の海峡)に程近い珍島沖では、4世紀余後に客船世越号が横転沈没しており、多数の反日修学旅行生ら及びその引率反日教員らが殉死して、鳴梁海戦の偉業に花を添えている。

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